昭和45年01月11日 夜の御理解
歌舞伎の役者達がよく使います言葉の中に「花のある役者になる」「花のある役者になれ」と言った様な事を申しますね、是は私はあのう信心を頂いておる者の上にもそれが言えると。花のある信者になれと花のある信者を目指せと言う様な事が言えると思うです、ね。私今日風呂の中で本当に良い先祖を持ちよい親を持ち、良い家内を持ちよい子供を持ち、よい師匠を持ちよい修行生を持ち。
もう思いよったら皆んな良いものばっかりなのです。私はそう言う様な事がですね、あのう本当にこう思えれる、私は心だと思うですね、花があると言う事は。もう家のおやじばっかり、家の子供ばっかりはっていう所には花は生まれない。そんな事を思いよったかでしょうか、今ご神前に出らして頂いたら頂きます事が、所謂木偏にこの「花」という字この日華の「華」ですね。
この華をこうこうこうして、まあ華という字じゃろうばってん、棒が1、2本多かっちゅうごたるふうな感じで頂くとですよ。だからそれが1本でも多かったらですね、もうそれはしら字しら花と言う事なんです、ね。ですからあのうややこしく考えない事ですね信心は。もう本当にそれこそ単純でもいいです。本当に良い親を持ち、どこの親と見比べてみて、見落ちのすると言った様な事を思わずにですね。
本当に良い親を持ち、良い先祖を持ち良い子供を持ち、良い家内を持ち良い修行生を持ち、良い師匠を持ち、良い信者を持ち、もう私の周囲にもう良いものばっかりのずくめにあるという事が有難い、ね。ですからここの御理解に頂きましたように、とにかくあの善導寺、そして勿体島、椛目そして常持、合楽とバスの停留所をずらぁっと言いながら御理解頂いた事がありましょう。
善導寺と言う事は善いお導きを頂いてと言う事なんですね。そ善いお導きを頂いておかげを受けて、本当に私達の様な者が勿体無いなあと、勿体島になって来た、その勿体ないという心持ちを、いわゆる椛目ですね、椛目、椛目の広前がある時分にはここには、ああ、心に花を咲かせに来る所じゃとこう仰った、ね。木偏に「花」という字が書いてありますもんね、椛目という字。
心に花を咲かせに来る所である、実は家でちぎれと言う様な、あぁ御理解を頂いた事がありました。そういう心に花を常に持ち続けて常持。そこに合楽そこに本当に皆が助かる、また神も助かり氏子も立ち行くという、まあ合楽と言う所にゴールインと言う様な意味での事を頂いたが、本当にこの善いお導きを頂いておる、勿体無いなあと言う事なんですよ。ならそのその善いお導きを頂いておると言う事は。
本当言うたら自分の敵役の人でもですね、敵役と思われる様な人でもその人が、私を信心に導いてくれるんですからね。矢張りあのう導いてくれるんです。だから善いお導きを頂いてと言う事はね、それがなら良い親を持ち、良い子を持ち、良い家内を餅というふうにですね、その単にまぁあぁ単純あまり単純なようですけれども、そう思わせて頂くと言う事がね、私いつも心に花を持てることじゃないだろうかと。
花のある信者に成らせて貰う、花のある信心を頂かせて貰おうというそういう願い。だからどういう中にあってもですよ心の底に、ね、そのう信心の喜びというか心に花を感じられる様なもうその事は様々な事。悲しい事もあろう腹の立つ事もあろう、ね。けれども、そのそこにはね、その事によって導かれておるという私は思いがね、感じられると言う事が私は心に花をいつも持ち続ける事ができるというふうに思うんですね。
是は役者が確かに「花のある役者になれ」と、また「花のある役者になる事を願いとしておる」というふうな事を申します様に、信心ももうそこを目指さなきゃいけん。花のある信者に、花のある信者を目指さなければいけん。いつも心に花を持っておる信者にならせて頂かなきゃならん。それには善いお導きを頂いて勿体無い、それなんだと私は思うですね。
どうぞ。